テュールとフェンリル狼 Tyr & Fenriswolf
 
テュールは勇敢かつ聡明な戦神である。ヴァイキングの間では、他の者を凌いで躊躇しない人物はテューフラウスト(テュールの様に勇ましい)、際だって賢い人物はテュースパク(テュールの様に賢い)と呼ばれていた。戦士たちにとってテュールに祈ることは良いことで、彼らは剣にテュールを表すルーン文字   を彫り、自身の力の向上や戦の勝利を祈願した。テュールという単語は当時の詩において神そのものを指すこともしばしばあり、またギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のユピテル、インド神話のディヤウスと同じ語源から来るものとされる。エッダではオーディンの子として伝えられあまり多くを語られないテュールだが、本来はヴァイキング時代以前から存在する古い神の一人なのだ。
フェンリル狼は、アサ神族のロキと女巨人アングルボダとの間に生まれ、世界に禍いと不幸をもたらすと予言された3兄妹の1人だ。最後の戦いラグナロクでは、目と鼻の孔から火を噴き、上顎は天を掠め下顎は地を掃くほどに口を大きくあけて迫り、ついにはオーディンを飲み込むとされる。

  
 
Episode

アサ神族のロキは元々巨人族の出身であり、女巨人アングルボダとの間に3人の子供があった。それは、長兄のフェンリル狼、次男のミッドガルド蛇、末妹のヘルの3兄妹で、彼らはヨツンハイム(巨人の国)で暮らしていた。しかし、この3兄妹から世界に禍いと不幸がもたらされるという予言を恐れたオーディンは、使者をヨツンハイムに向かわせて彼らを捕え、アスガルド(神々の世界)まで連れてきた。
 
今や彼らの運命はオーディンの手に委ねられた。ミッドガルド蛇は大海の深みへと投げ込まれたが、海の底で生き永らえて大地を取り巻くほどに成長した。ヘルはニフルハイム(霧の国・冥府)の支配権を与えられ、病気や老衰で死んだ者たちに住まいを与える王となって暮らしている。そして、フェンリル狼については、いったい世界にとってどのような脅威となるのか見極めるべく、アスガルドで神々の監視の下に置かれることとなった。このころの彼はまだ、他の狼と同じように思われたのだ。
 
不吉な予言をされたフェンリル狼に餌を与える勇気を持った者は、神々の中にはテュール以外いなかったので、彼が狼の世話係となった。そしてフェンリル狼はテュールの手によって育ち、月日と共にみるみる大きく成長していった。だが、獣が着実に強大になる様を見た神々は、いよいよ自分たちを滅ぼす予言の時が迫っていると、疑心暗鬼に囚われざる言えを得なかったのである。そして予言を恐れた神々は密かに打ち合わせ、奸計を用いてフェンリル狼を捕縛することに決めた。
 
神々の策略はこうであった。自分たちが考えうる最も強力な足枷を作り、力試しと偽ってフェンリル狼にはめさせて捕える、というものだ。彼らは足枷をフェンリル狼に差し出すとこう言った。「この足枷をはめて君の強さを示せば、大きな名声を得ることができるだろう」と。結果は1本目のレージング、それよりも頑丈に作った2本目のドローミ共に、フェンリル狼が力を込めて身震いすると千切れて飛んだ。フェンリル狼はこの不自然な力試しを少しは疑ったが、自身を危険に晒すことをためらわず、堂々と名誉を得ることに成功したのであった。そしてまた、以前よりも自身の力が増していることをも感じていた。
 
神々は、自分たちの作った足枷がフェンリル狼を縛れなかった事実に大慌てとなった。そこでオーディンはこの策略を完結させるには、地下深くに住む小人族の特別な技術を用いなければなるまいと考えた。そして小人族の工匠の手により、グレイプニルという足枷がこしらえられた。この3本目の足枷は絹糸の様に滑らかで柔らかかったが、見た目よりもずっと強固にできていた。誰にも確かめることはできないが、この足枷は6つの物、猫の足音、女の髭、山の根、熊の腱、魚の息、鳥の唾が縒り合されていたのだ。
 
神々はグレイプニルを手にすると、フェンリル狼をリュングヴィという小島に誘い出した。そして自分たちの手で切れないことを試すとフェンリル狼にこう言った。
神々「これは大したものに見えないが、想像するよりもずっと頑丈な足枷なのだ。それでも君なら、これまでの物と同じように切ってしまうに違いないと思うのだが。」
フェンリル狼「確かにあなた方の言うとおり、この足枷は見た目より丈夫なのでしょうが、こんな細紐を千切ったところで名誉になるとはとても思えませんね。今はむしろ、こんな物で私を縛ろうとするあなた方から、好意よりも何かしらの偽りと悪意を感じていますよ。」
神々「これまで鉄の足枷を壊してきた君だから、こんな細紐はわけないだろうさ。それでも君の力がこれを切れない程ならば、我々は今後君を恐れる必要がないということだ。その時はもちろん君を自由にすることを約束しよう。」
フェンリル狼「もしもこれで捕縛されてしまえば、私はあなた方からの助けを待ち続けねばならない不自由な立場になることでしょう。あなた方の思惑通りになるのは気が進みませんが、罵られたままでいるのも耐えられません。さあ、あなた方の足枷を試そうではないですか。ただし、その間は虚偽のない証として、誰かひとりが私の口の中に手を入れていなければなりませんよ。」
神々は互いに顔を見合わせているばかりで誰も手を差し出そうとしなかったが、その時テュールが立ち上がり、ついと戦神の右手を狼の口の中に入れた。そのことにフェンリル狼が戸惑ったかどうかは知らない。はっきりしているのは、フェンリル狼が足枷を千切ろうと力を入れても、紐は丈夫でびくともしなかったということだ。それどころかフェンリル狼がもがけばもがくほどに、グレイプニルは鋭く彼の皮膚に食い込んで締め付けた。その様子を見ていた神々は大笑いしたが、テュールだけは笑えなかった。彼は右手を失ってしまったのだから。
 
かくしてフェンリル狼は捕えられたが、それでも大きく口を開けて神々に噛みつこうとした。そのため彼らは、狼の下顎に柄が、上顎に切っ先が突き刺さる様に1本の剣を突き立てた。そしてフェンリル狼は、口から涎を小川のように垂れ流して恐ろしい声で吠えながら、最後の戦ラグナロクまでその場所に縛り付けられていることだろう。